映画『ミッドサマー』感想
はろんぬ、アル中お兄さんだよ。
今回は久しぶりの映画感想だよ。
という訳で見てきたのはコレ。
『ミッドサマー』。
Twitterを中心に何かと話題になっている今作。
「山田と上田が来なかったtrick」なんて言われていて、「どういうことやねん」と思っていたところ、ゴア描写や未公開カットを追加した"完全版"とも言える『ディレクターズカット版』が公開された。
そんなわけで友達に誘われるままホイホイとスウェーデンの秘境、ホルガ村に遊びに行ってしまったわけです。
ではでは、そんな素敵なホルガで行われるお祭りの感想を語っていきます。
※注意
※ここより先は重度のネタバレや個人の考察などが含まれます!
1.生々しい不愉快さを見せる人間関係
・主人公のダニーはパニック障害を抱える、精神的に弱い女子大生。交際して4年になる彼氏のクリスチャンはそんな彼女に冷め切っており、家族を亡くし天涯孤独の身となった彼女へ同情こそすれどもはや愛はない、ただそれだけの付き合いを続けている。
そんな彼女には内緒で、クリスチャンは大学の男友達とスウェーデンへの旅行を計画していることがダニーにバレてしまう。
激昂するダニーは、半ば強引に旅行に同行するが…。
というところから物語はスタートする。
本作の注目点は多くあれど、共通して言えるのは生々しい不愉快さだ。
ダニーを取り巻く周囲の環境、そして人。
その空気感が妙にリアルなのだ。
ダニーは所謂メンヘラというやつで、自分がクリスチャンに依存しているということを自覚しながらも、その関係にすがるしかなく、クリスチャンはクリスチャンで非情になり切れずダラダラと関係を続けている。
シチュエーションの違いはあれど、こういう惰性で関係を保ち続けているカップルは身の回りにも多くいるだろう。
極め付けはダニーが旅行に同行すると言い出した時の友達連中のあの空気。
「男連中でワイワイ楽しくやろうとしてたらなんか一人が彼女連れてきてなんとも言えない微妙な感じになる」あの空気、正にアレである。
おそらく多くの男性に「あるある」と思わせたあの空気感が本当に秀逸だった。
ホルガへ辿り着く前から、『ミッドサマー』は日常に潜む不愉快さを前菜にして物語を進めていく。
この下地の作り方が非情に小気味良く、テンポ良く進むのもあって、これから始まる狂気を見ている視聴者の日常に重ね易くしているのかな、と。
2.群体生物「ホルガ」
・そんなこんなで辿り着いたのは、学友・ペレの故郷であるスウェーデンの田舎集落、ホルガ村。
そこでは90年に一度開かれる夏至祭がちょうど始まるところで、村人達も異方から訪れたダニー達を快く歓迎してくれる…。
・このホルガ村というコミューンは、もはや群体生物の域にまで達しているのだろう。
群体生物というのは、人間のような単一の生命ではなく、無精生殖によって自分のコピーを作り続け、それらが一つになって、まるで一つの生き物のように行動するというもの。
(クダクラゲなんかが有名なのかな)
ホルガの住民達は確かにそれぞれ独立した考えを持っているように見えるが、その実、彼ら彼女らの思考パターンは画一的で、それでいてあまりに機能的。
住民達は適正を見出されるとそれにふさわしい仕事が村から与えられ、結婚と生殖の概念は別に分けられ、血縁も管理される。
ホルガという大きな生命体にとって、住民達は血液であり細胞であり臓器なのだ。
そして脳でもある。
この手のカルトホラー物といえば、村の掟に疑問を抱く若者であったり村を牛耳る長老が出てくるのがセオリーだが、ホルガ村にはそういった存在は登場しない。
いや、正確には長老などは存在するが、決してその存在が出しゃ張ることはない。
彼らは常に村の総意として主人公達に接するのだ。
主人公達は村人に「個人」として接しているが、村人達は違う。
彼らは「ホルガ」という一つの存在として常に主人公達に接する。
彼らは「ホルガ」という巨大な生命体のひとかけらに過ぎないのだ。
72歳になった老人は崖から飛び降りる。
注目すべきは他の村人が殺すのではなく自分で死んでいる点。
これは細胞の自己死(アポトーシス)であり、ホルガ村の新陳代謝なのだ。
しかし、劇中で飛び降りた二人の老人の内、片方の老人は生き残ってしまった。
そこで登場したのが、木槌を持った村人だ。
彼は生き延びてしまい、苦しむ老人の頭に木槌を振り下ろし殺す。
これは自己死ではなく、外部からの損傷を受けて死んでしまう壊死(ネクローシス)になる。
自己死ではなく壊死した細胞と繋がる彼らは同じように痛がり、苦しむ訳だ。
そして古き細胞を捨て、これから生まれる新しい命、新しい細胞へと移り変わる…。
ここだけ抜き取って見てみても、彼らが如何に完璧で、不気味な群体生物なのかがわかる。
3.ルビンについて
・劇中、ホルガ村ではルビ・ラダーと呼ばれる聖典が信仰の中心となっており、ルビ・ラダーは今も書き続けられ、それを書くことが出来るのは意図的な近親相姦によって生み出された障害児であるルビンのみだと語られている。
ルビンは本作でもっとも謎の多い存在だろう。
ホルガでは「重度の障害によって知性による心の曇りがない」ので聖典はルビンにしか書くことが出来ないのだという。
そしてルビンは決していなくならないらしい。
これは恐らく、ルビンは代々存在していることを現している。
ルビンは障害を持ち合わせて生まれてくる為、寿命もそこまで長くはない(人生の季節ごとに分けられた宿舎ではない場所でルビンが寝ていたのもその為か?)。
ルビンが予期せず死んでしまった時の為に、必ず「次のルビン」は途切れずに用意されなければならないはず。
しかしそうなると、ルビンが存命している内に次の「ルビン候補」が生まれていなくてはいけない。
いくら近親相姦とは言え、障害(しかも重度の)を持った子供がそう簡単に生まれてくるとも思えない。
医療機関もない村では生まれてくる瞬間まで障害を持っているかどうかもわからない。
ではどうすればいいか。
そこでヒントとなるのが、劇中よく聞こえた赤ん坊の声だ。
主人公達の眠る宿舎では、絶えず赤ん坊の声が聞こえていた。
しかし、主人公達と我々視聴者が赤ん坊の姿を確認できる場面はない。
答えは簡単だ。見せられないのだ。
赤ん坊達は、意図的な近親相姦を繰り返し、量産されたルビン候補達なのだ。
劇中の性行為のシーンが強く脳裏に焼き付き過ぎたせいで最初この答えに辿り着くことが遅れてしまった。
よく考えてみれば、あのシーンは外の血であるクリスチャンとマヤの為の儀式であり、村人達が皆あのような儀式で子供を身篭るなど誰も話していない。
次代のルビンを効率的に産み出す為には数をこなすしかない。
そう考えてみれば、村全体の人口に対して若者の数が多いことにも納得がいく。
彼らは皆、近親相姦によって生まれたが障害を持たずに生まれてきた元ルビン候補達なのだ。
これは考え過ぎかもしれないが、他にもこの説を裏付けるようなシーンがある。
前述した老人の儀式、アッテストゥパンだ。
あの二人は「今年、72歳になった」のではなく、「あの日に72歳になった」のではないだろうか?
つまり儀式の日が誕生日だったのではないだろうか?
もしそうならあの日、兄弟でもない赤の他人同士が、この狭い村の中で同じ日に生まれたことになる。
妊娠周期は個人によるバラ付きがある為、一概には言えないが、少なくともあの二人は同時期に行われた性行為によって生まれた訳だ。
もし本当にそうなら、これは日常的に村の中で集団的な行為が行われているということになる。
しかし、当然そんなことをしていれば村の人口はとんでもないことになる。
当代のルビンが生きている以上、必要以上の「候補達」のストックは村の食いぶちが増えるばかりか、仕事に付けない者達で村が溢れてしまう。
もう何となく皆さん察しが付いているだろうが、答えは恐らく、あの正体不明の肉が使われたパイだったのではないだろうか。
劇中では「肉」としか言われていない上に、元になった動物達の痕跡がわかるような状態でシーンに映ることはなかった為、判別するのは難しいが、劇中後半のシーンでホルガ村には高度な動物解体技術が存在していることはわかっている。
邪推かもしれないが、あれだけ外界の倫理観から外れた村ならばカニバリズム程度のことは容易に行われていてもおかしくはない。
全ては聖典を書き続ける為、その為のルビンを絶えず用意しておく為なのだ。
4.ラストシーンとペレについて
・ラストシーン、ダニーは恋人や生贄達が燃えていく様を見て穏やかに微笑む。
このラストシーンの解釈は、それこそ見た人によって全くバラバラになるだろうし、それで正解なのだと思う。
なのでこれはお兄さんの考え。
ラストシーンにおいて、恐らくダニーは救われたのだろう。
この『救い』というのは、ずっと孤独だったダニーにとって、初めてホルガという本当の家族が出来たこと。
劇中でのダニーを見ていると、最初こそ困惑する描写は多かったが、ダニーはクリスチャンや友人達と違い、村人達を拒むシーンがなかった。
(村人達から勧められた物は基本的に受け入れ、村の女性達とも仲良く過ごしていた。)
言うなれば、『ホルガの素質』があった。
しかし、ダニーはそもそも余所者である。
いくら新しい血が必要とはいえ、それはクリスチャンで事足りているし、易々とホルガの住民になることは出来ないはずである。
そこで注目したいのは本作一番の狂言回しであったペレの言動だ。
ペレは大学の友人達を誘いホルガに連れてくることで、彼らを最初から『生贄』として運んで来たことは明らかだ。
(儀式の最後で生贄を連れてきたことを表彰されていた時の彼の笑顔が全てを物語っている。)
しかしダニーは最初の段階では今回の"生贄ツアー"には含まれていなかったはず。
これからホルガで何が起きるのかを考えれば、ペレの立場からしてみれば彼女の同行は好ましいことではないはず。
ところが彼は、拒むどころかダニーの同行を誰よりも歓迎した。
何故か?
ヒントになるのは物語冒頭の挿絵だ。
各所で言われている通り、この絵はこれから劇中で起こる全ての出来事が描かれている。
絵にある通り、ダニーは最初からホルガへと来る定めであり、村の一員になることも決まっていたことになる。
注目すべきはペレに相当する人物だ。
彼は絵の中で木の上から喧嘩をするダニーとクリスチャンを眺めている。
彼は以前から二人の不仲を知っていて、ダニーとクリスチャンを引き離したかったのではないか?
ペレが以前から今回の旅行の計画を練っていたことがわかるシーンがディレクターズカット版のシーンに存在する。
ホルガへ向かう途中、学友のジョッシュが読んでいる本に集中するシーンがある。
その時読んでいた本は『ルーン文字とナチスの関係について』といったもの。
ジョッシュ曰く、「ペレに勧められた」とのこと。
その時、ダニーは冗談混じりに「皆を洗脳しているのね?」とペレに話すが、ペレはただ笑うだけであった。
他にもペレは象徴的な行動を取る。
劇中において彼はよく絵を描いている。
そして冒頭の挿絵といい、本作には多くの絵が登場する。
("恋の魔法"の絵など。)
絵のタッチなどはかなり違うが、『ミッドサマー』という作品の中において、絵を描いているのはペレだけなのだ。
『ミッドサマー』において登場する絵が『予言』を意味するなら、絵を描く者であるペレは『予言者』ということになる。
更に言うと、ペレは劇中で唯一ダニーの誕生日を覚えていた人物だ。
そしてダニーの誕生日はホルガの夏至祭が始まる日と同じ日である。
前述の通り、もし夏至祭がアッテストゥパンで死んだ老人達の誕生日であるなら、ダニーは数十年後の夏至祭で72歳になる。
そしてペレは幾度となくダニーに語り掛けていた。
『君の気持ちはよくわかる』
何故わかるのか?
先程述べた通り、ホルガは群体生物と呼べるほどの共生団体である。
あらゆる感情や感覚をまるで自分のことのように共有できる集団。
そしてそのホルガの一部であるペレが、ダニーの気持ちはよくわかるとずっと言い続けていたのだ。
ダニーがホルガの一員になれる素質があることを、ペレは見抜いていたのではないか?
そう考えると、そもそもペレの中では彼女の旅行への同行は計画のうちであり、その為のお膳立てを事前にしていた可能性まである。
最後、ペレは草冠を被り村人達から生贄と女王になったダニーを連れてきた功績を称えられる。
それまで冠と言えば花の冠しか登場していなかったのが、このシーンでペレが被るものだけは草で編まれた冠だったのだ。
これは、もしかするとキリストが頭に置かれた棘の冠をイメージしているのでは?
本作がどこまでキリスト教へのアンチテーゼ的な要素を含んでいるかは不明だが、意識しているのは間違いない。(登場人物達の名前が全てキリスト教に由来しているなど。)
このシーンも、『クリスチャン』という名前の人物が毒で身動き一つ取れず生贄に選ばれるのを待つ横で、異教の民であるペレがキリストを彷彿とさせる冠を被り英雄として称えられていた。
クリスチャン達にとってみればペレは『ハーメルンの笛吹き男』だが、ホルガの村人達からすれば生贄を村に呼び、女王を連れて来た『福音』、救世主でもある。
そしてペレが救いを与えたならば、それはダニーにも言える。
ダニーはホルガの一員になるべき存在であり、それを見抜いていたペレは彼女を村へと導いた。
彼女にとって、結果的にペレはキリストになった。
ラストシーンの笑顔は、ダニーがホルガ村に完全に取り込まれた瞬間でもあり、真の家族を手に入れて救われた瞬間でもあったのだ。
5.総評
・本作が何を言いたいのかと言えば、それは『絶対的な倫理観など存在しない』ということ。
普段、我々が信じている倫理観というのも、結局はキリスト教的な倫理観なだけであり、その理の外側にいる人間にとってみればその考えの方こそ異教であり、恐怖を覚えるものであるということ。
自分達が普段信じているものが、もしかすると誰かにとっては受け入れ難いものであるかもしれない。
この映画を見終わった後に残る不安感は、自分の信じていた常識を覆されそうになる不安感なのだ。
人の倫理観や価値観など時代や土地によって変わっていくのは当たり前だ。
しかし、我々はついつい自分の価値観、倫理観に則って色眼鏡で物事を見てしまう。
クリスチャン達が最後までそうだったように。
ダニーは最後、ホルガの一員になることで染まってしまったが、それもまた正しいと言えるのか?
大事なことは疑問に思うこと。
常に常識を疑うことだ。
当たり前に信じられる物などこの世界にはないことを、この映画は伝えたいのかなと。
本作の監督であるアリ・アスター監督曰く本作は『恋愛映画』とのことだが(!)、宗教的なメタファーとしてダニーとクリスチャンの恋愛を軸にしたのなら、成る程と思える。
他人への好意、信頼は宗教の信仰に似ている。
ダニーやクリスチャンにも言えるが、「どうしてそれで付き合ってられるの?」と周りが思えるようなカップル達にとって、恋愛は依存になっており、依存は宗教の信仰に通じる。
相手の為なら例え暴力を振るわれようとお金を取られようと、それでも関係を続けようとする人達にとって恋人とは神であり、そこにあるのは恋愛感情ではなく依存という名の信仰なのだ。
最後、ダニーはクリスチャンを生贄に選ぶ。
それは単に彼女の依存先がクリスチャンからホルガ村に移っただけ。
そういう意味では、ダニーは新しい出会いに巡り逢えた…と言えるのかも。
宗教と恋愛は似ている。
是非覚えておきたい。
というか、この映画が日本で流行るなんてなかなか世界からしたら驚きなのかもしれない。
何せ、我が国はあのオウム真理教を産み出した国なのだから。そういう意味でも色々考えさせられる。
最後にもう一度。
あなたが信じている相手、あなたが信じているもの。
それは本当に正しいのか?
そして『正しい』とは何か?
それは誰が決めたのか?どこからやってきたのか?
目の前にある現実に、この映画と一緒に疑問符を浮かべてみるのも良いかもしれない。
〜〜〜
という訳で、『ミッドサマー』の感想もとい考察記事でした。
えらく長くなってしまって申し訳ない…。
途中、何書いてるのかわからなくなって変になっている場所も多いかも。
ここまで読んでくれたことに感謝です。
解釈的におかしなところもあるかもだけど、一回しか見てないから勘弁な!
(また見返したいけど見ていてしんどい映画なので…)
いやぁ、でもまた見たいなぁ。
レンタル始まったら見ようかな。
いやでもなぁ…。
そんな気分になる名作でした。
ではでは、また何かの記事で。